神社の由緒

鎮座地 京都市上京区大宮通盧山寺上る西入社横町277番地
御祭神 高沙大神・春日大神・武甕槌命 他19柱
例祭日 10月16日

 社伝によれば平安時代55代文徳天皇(850年)皇后藤原明子ご懐妊の際、その安産お祈りのため、産殿の西方に大和国三笠山から春日の大神をお迎えして祈願したところ、儲君・後の清和天皇をご御平産になったと伝えられる。
 その春日大社御鎮座の場所が山城国葛野郡(かどのぐん)櫟谷(いちいだに)である。当時は櫟の森を谷川が流れていたのであろう。また、社名の「七野」とは、もと船岡山麓一帯にあった原野で、紫野・禁野・柏野・北野・平野・蓮台野・内野(神野・神明野・萩野・御栗栖野)のこと。これら七野の惣社として祀られたと伝えられる。伊勢神宮の斎院に準じて設けられた紫野斎院が廃絶された時、その屋敷神を七神祀った社だったと言う説もある。

 この七つの野に神供田があり、その石高は合わせて七百五十石に及んだという。
 この神社に、離れてしまった天皇の愛を復活させてほしいと祈ったのは、59代宇多天皇(894年)の皇后。社前の白い砂を三笠山の形に積み、祈願せよと のお告げを得て、その通りに砂山を作り祈った所、天皇の愛情が戻ったという。それ以来、社前に白砂を積めば浮気封じ・愛の復活の願いが叶うといわれ、社前 に積む砂も「高砂山」と呼ばれる様になった。
 その後、応仁・文明の戦乱時代、この七野あたりは細川勝元と山名完全が相対峙する戦場と化したため、社頭は殆ど灰燼に帰したのを、大内義興の台命あって永正9年(1582年)2月、七野各社を高台の一所に集めて再興がはかられた。

 織田信長が遊宴のために社を麓に引き下ろし、その跡に高殿を建てて神域を穢したことが、後に豊臣秀吉に聞え、秀吉は山内一豊をして再建せしめた。その 時、秀吉は各大名に石垣の寄進を命じ、その石には大名の家紋などが刻まれている。今は土や苔で見えにくくなっているが、秀吉の篤信が偲ばれる。
 以後、特に禁裏・仙洞・女院御所の崇敬篤く、大火焼失等の都度、これらからの再興がはかられてきた。
 なお、当社では、昔から毎年春になると、どこからともなく一頭の鹿が神前に現れるのを、奈良へ送るということがあった。明治6年(1872)以後見られ なくなったのであるが、この神縁により、明治28年(1895)、当社よりの依頼により奈良の春日神社から神鹿2頭を貸与された、という記録が、今日春日 大社に残っている。